ふと現れる限界状況
こんにちはmegです!
先日会社の近所で火事が起き、さあ、大変! 煙がもくもく!
死を間近にして、パッと浮かんだ事柄は、なんと小説を書かなかったことである。自分にとってなぜかとても重要なくせに、あとまわしになっていることでもあった。
上へ上へと立ち昇る煙を見ながら、過去が蘇ってくる。
昔、付き合っていた男性に、「君は文章を書いているほうがいい」と、キャバクラ遊びを覚えた彼は、自分との距離を離したい利己的な思いから、いかにもわたしのために言った言葉を口にした。彼からの言葉に傷ついたふりをして馬鹿なこともしたが、本心はすでに彼のことなんかどうでも良いと、ほっとした自分は薄情だとさえ思った。
そして、10年後、今まさに火事が目の前で発生し、白煙が周囲をたちこめている。
そして今、心の奥底にひそんでいた思いが浮かびあがってきたのだ。
さらに、自問自答を続けると、そのときの言葉が、喉に引っかかった小骨のように留まっていることに気が付く。
書きたくても、没頭することがある種の負けを認めたようで、入りこむことができない。負けでもなんでもない。かといって、逃げでもない。自分にとって大切な小説をそのように扱われたことに腹が立っているのだ。
そして、たかだかそんな男なのだ。
そんな安っぽい男云々と書いていて、たった今思ったが、プロは、様々な読者がいて、批判など雨アラレのように降ってくるではないか。じゃあ、一つ一つに傷ついて、相手をさらにけなすことで小説を書く自分を守るのか。
いや、今回の問題は、そうではない。彼が安っぽい理由で自分を守るために、わたしが大事にしていた小説を盾にした卑怯な手口が許せなかったのだ。そして、そんな安っぽい彼がいうように小説を書いてしまう自分を負けだと心のどこかで思ってしまっているのだ。
しかし、小骨が見つかって、わたしは安っぽい彼がいうような行動、つまり小説を書く行動をすることは負けと思ってしまうことなのだろうか。
そんな小さなくだらない価値観を持っている己を恥ずかしいと認めることが小骨を抜く第一歩なのだ。というか、安っぽい彼がいう以前からわたしは書いていたのだ。なぜに振り回されていたのだろうか。
そうなると、今度は、昔の自分にすがりつくわたしになってしまいそうだが、そうではなく、それは脱却するためのひとつのきっかけを作っているにすぎない。今は自信がない。それでいいのだ。いろいろな人がいろいろなことを言う。いろんな障害もある。だからこそやめないのだ。自分が本当にやりたいことは、何があってもやめないことだ。価値観なんてくそくらえだ。人の価値観なんていつでもくそくらえなのだ。
これが、限界状況から浮かび上がる本当の欲求なのかもしれない。
カール・ヤスパースの限界状況の実存哲学でも触れてあるが、死を感じることで、底に潜んでいる本当の願いが覗けてくる。
火事は間もなく収束し、何事もなかったかのように、見た目には一時間後には元の生活に戻っていった。